「日本は民主や自由を掲げているはずなのに、守ってくれなかった。そう感じている元留学生は僕だけじゃない」 89年の天安門事件当時、大阪大大学院で社会学を研究していた趙京(チャオ・チン)さん(46)の言葉に憤りがにじむ。 中国政府の国費留学生だった趙さんは、事件後に発足した民主化組織の関西地区代表を務めた。旅券の更新期限が迫った91年夏、大学当局に相談すると、指導教授から中国総領事館あての「反省文」への署名を求められた。「学業以外の活動に没頭し適切でなかった。今後は学業に専念する」。そんな文面だった。 この出来事について、指導教授は「痛い記憶だ」と振り返る。民主化邉婴巳·杲Mむ趙さんに、中国当局は奨学金打ち切りなどの圧力をかけた。趙さんの旅券が更新される見込みはなく、指導教授は総領事館に何度も働きかけたが、無視され続けた。 途方に暮れていた91年8月ごろ、指導教授は奇妙な体験をした。 研究室に一本の電話が入った。男の声で名前も言わず「ちょっと来て欲しい」。趙さんの件だ、とピンときた。大学から遠くない指示された場所に急ぐと、看板もない殺風景な事務所だった。奥にいた日本人の初老の男は、机の上のファイルを開いて見せた。趙さんがいつ、どんな集会に参加しているのか、詳細に記録した資料の束だった。 「指導教官失格ですな」。男は決めつけ、「日中友好にひびが入りますよ。総領事館に謝罪した方がいい」と続けた。そして趙さんが反省文を書くこと、邪魔が入らない深夜に総領事館を訪ねて謝罪すること、の2点を助言した。 数日後の午前0時過ぎ、総領事館に行って頭を下げた。そして、反省文をつくって趙さんにサインさせ、総領事館に送った。まもなく旅券の更新が認められた。 男の正体はわからない。指導教授は「早く事態を収拾しろ、というのが権力の意向だと理解した」と振り返る。 趙さんは95年、日本での生活に見切りをつけ、米国に渡った。いま「中国政府の顔色でなく、僕という個人に向き合ってくれそうだと思ったからだ」と理由を語る。 日本政府は天安門事件以後も、人権問題で中国を批判するのを控えた。趙さんの件があったころ、海部首相が西側首脳として事件後初めて訪中し、一時凍結した円借款の本格再開を表明。対中関係の全面修復にかじを切った。 当時、外務省アジア局長だった谷野作太郎・元中国大使は「中国を締め上げることがアジアの平和と安定につながるのか。将来的に中国を国際社会にどう位置づけるか。隣国としての第一の課題だった」と振り返る。 青山学院大の高木找焕山淌冢üH政治)は「日本が中国の人権批判を控えた理由の一つに、歴史問題があった」と指摘する。中国政府に戦時中の日本軍の行為を持ち出されないか、との懸念だ。 体制の異なる隣国と、日本はどう向き合うのか。天安門事件が突きつけた課題は、今も続く。中国当局の「磁力」は海を越え、在日華人を縛りつけている。(林望) |